より使いやすく、より快適に。そんな想いから、山下歯科医院の山下院長は様々な思考を凝らし改良を重ねる。地域に密着した医療を行いながらも、自ら興味のある分野に熱心に取り組む院長は、インプラントのFIT-Systemを考案したことでも著名で、コストの軽減や治療時間の短縮などの改善などにも取り組んでいるという。自身の探究心と改造好きも高じて、院内には院長の工夫と心遣いがあちこちに。いつも着ている白いポロシャツが自分の白衣だという院長、そんな枠にとらわれない医療から趣味に至るまで、多岐に渡る話は興味深いものだった。(取材日2009年2月12日)
―先生のバックボーンから、医療を目指すまでを聞かせてもらえますか?
生まれは名古屋で、親からは「5歳までは神童、大人になったら普通の人」と言われていました(笑)。おじいちゃんの遺言が「将来、お医者さんになりなさい」。そんな言葉を受けて、中でも歯科医師を選んだのは、小さな頃に近所で仲良くしてくれた歯科医師が、自分の趣味と仕事をしっかりと分けて生活をされていたから。船が好きな先生で、先生のヨットに乗せてもらったり、よく遊んでくれたんです。歯科医なら趣味も仕事も両立できるのかなって、幼いながらに思ったんでしょうね。僕も小さい頃から手先が器用で、ラジオや時計を分解しては組み立て直したりを繰り返していましたから。
―大学時代からはどのような勉強をされたんですか?
在学中から1〜2期上の先生たちの手伝いを大学に内緒でしていたんですが、僕は頭より手が先に出るタイプでして、誰ができる人で誰が不器用かというのが一緒にやっていると分かるんですよ。卒業する時、その先生たちからのスカウトがいくつかあったのですが、中でもすごく技術があると思っていた吉積先生に、卒業後3年間ついていました。病院で選ぶのではなく、ドクターで道を決めたんです。だから吉積先生の勤務先が変わられたら、僕も一緒について行った。だから先生は大変だったと思いますよ。だっていつも僕がついてくるんだから、勤務先を変えるにも二人分の受け口が必要になる(笑)。それで3年半くらいついて回った頃、吉積先生が地元に帰られることになったんです。僕はどうしようかと考えた。大学に残るか、開業するか。昭和57年のことですね。結局、第一次オイルショックの時に実家が倒産した事もあり、大学に残る事を断念して開業する道を選びました。その頃、たまたまこの前の通りを車で通って、この場所が空いていると書いてあったを見つけて、すぐに決めました。当時は、横浜や横須賀にも勤めていたし、こちらには土地勘がありましたから。