桜新町駅から歩いて5分程度の閑静な住宅街に、大きな3階建ての「宮崎整形外科」はある。2ヶ月に1度、本格的な全面クリーニングをしているという院内は清潔感にあふれているが、医院の歴史は古く、開業は昭和17年のこと。現院長の宮崎祐先生のお祖母さまが産婦人科としてはじめたそうだ。その産婦人科の時代に、まさにこの空間で出生した宮崎祐院長。自分のルーツでもあるこの場所で、今は乳腺外科を専門とするお父様と一緒に、日々真心と誇りをもって患者さんに向き合っている。(取材日2008年2月15日)
―医院の歴史について教えていただけますか?
父方の祖母はもともと青森の弘前出身なのですが、たったひとり東京に出てきまして、昭和11年に産婦人科としてこの医院を開業したんです。実は僕もここで生まれ、建物の3階が今もずっと自宅なんですよ。祖母はひとことでいうと、厳しい人でしたね。当時の女医さんはごく少数でしたから、相当の強さがないと道を切り開いていけなかったのかもしれません。ただすごく情に厚い人で、祖母の代から通ってくださっているご高齢の患者さんから「よく面倒をみてくれた」なんて話を聞くこともあります。そんな昔ながらの医院ですから、家族4代で来てくださっている患者さんもいれば、僕を赤ちゃんの頃から知っている患者さんもいます。また僕の小学校の友達も来てくれていますね。そう、今でも小学校の友達とは2年1度くらいの頻度で会っているんですよ。必ず15人くらいは集まります。仕事はバラバラですけれど、話していると一瞬にして当時の仲間に戻ってしまうから面白いですよね。祖母が引退した後は、消化器と乳腺を専門とする父と、整形外科を担当する僕の2人で診療している形になります。
―青春時代、思い出に残っているエピソードはありますか?
実は中学で色々ありまして、けっこう休みがちになり成績も落ち込んでしまったんです。しかし中2の終わりに友人に誘われてエレキベースをはじめたんですよ。もともと母がバイオリンの先生だった関係もあって音楽は好きだったんですけれど、それ以降は生活にも張りがでてきまして。なにせバンド仲間の頭がよかったんです。名門校ぞろいのメンバーだったので、「お前がバカじゃ困る」といわれ、ようやく勉強に力を入れるようにもなりました。バンドは大学3年までかなり真面目に練習しましたね。大学のときに所属していたのは、かつてサンプラザ中野さんのメンバーもいた本格的なサークルだったんですよ。