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モモタロウ助産院
助産師 内田みしば
宮崎台駅 (宮前区) / 助産師・助産所
 

モモタロウ助産院 助産師 内田みしば 特別取材1 (助産師・助産所/宮前区/宮崎台駅)

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開業から30年以上、世代を越えて地域の人々から愛され続けているモモタロウ助産院。助産師の内田先生は60年以上の助産師としての経験をもち、分娩数は1万人以上にのぼる。生まれ故郷の富士見町に1千万円を寄付したことでも話題になった内田先生は、84歳という年齢を感じさせない元気とパワーの持ち主だ。「お産は一人一人がドラマ」と語る先生の、心温まるお話に心打たれた。(取材日2008年7月15日)


白いエプロンと活動的な叔母の姿に憧れて

―助産師を目指したきっかけは何ですか?

きっかけは叔母の影響ですね。助産師をしていたのですが、白いエプロンをサッとつけ、テキパキと活動的に仕事をこなす叔母がかっこ良くて、私の憧れの的だったのです。その姿は美しく、私もあんな風になりたいなと子供心に思いました。でも、うちは裕福とは言えない家庭で、私は9人兄弟の末から2番目。行きたい学校に行かせてもらえる余裕などありませんでした。12歳の頃、自分の将来を考えた時に、叔母のような仕事がしたいと思い、叔母のところへ相談に行きました。「まずは看護師の資格をとってから。助産師の免許はそれからよ」と教わり、私は看護婦の養成所に入り資格を得て、昭和18年に慶応病院の助産師の養成所に入り、昭和20年に助産師の免許を取得しました。それが私の助産師としての人生の始まりですね。

―助産師の仕事はとにかく体力勝負でしたね

27歳まで慶応病院で勤務をし、その何年後かに慶応病院でお世話になった先生が開業されている飯塚産婦人科で勤務しました。そこは、ベッドが20床ほどのそれほど大きな病院ではなかったのですが、毎日10人ぐらいの出産があるとても忙しい病院でした。夜間に3回のお産があることもあり、真面目な性格の私はとにかく一生懸命に助産師としての仕事に努めました。何万回ものお産に立会い、大病院では学べなかったこともたくさん経験させてもらいましたが、とにかく忙しすぎて寝る時間もない毎日だったのです。体力的に辛くなってきて、勤務から4年後「体がついていけません」と院長に相談しました。18歳の時から慶応病院でお世話になっている先生だったのですが、「では開業しなさい、君ならできるよ」院長にそう言われ、「お金もないのにそんなことを言われても‥‥」と、正直言って思いました。院長はご両親の苦い経験から、人にお金を貸したり保証人になることは絶対にしないと決めている方だったのですが、その時にこうおっしゃられたのです。「お金は貸せないけど、君の人柄を保証する」。先立つものがないまま、開業への準備を進める運びとなりました。

―「君の人柄を保証する」先生は約束を守ってくれました

開業するにあたって、まずは場所を探さなければなりません。今のこの場所はトラック置き場だったのですが、1階にはトラックが3台ほど停まれるスペース、2階は運転手さんたちの宿舎として使われていた建物があったのです。私はこの建物に目をつけ、1階に診察室、分娩室、待合室をつくり、2階は病室にして、できるだけお金をかけず、トラック置き場を病院へと改造しました。そんな開業の準備に追われるある日のこと、黒いカバンを持ったスーツ姿の男性が訪ねて来られたのです。その方は銀行の方で、融資をしてくださるとのお話でしたが、聞けば先生からの紹介でした。私の真面目さ、人柄を買ってくれて、院長が融資の話をつけてくれたのです。「君の人柄を保証する」先生は約束を守ってくれたのです。

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